HISTORY100年の歴史

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PHASE 00

1886-1919 創業期 白石恒二炭カルと出会う

PHASE 01

1919-1949 白石工業の誕生 白艶華の誕生

PHASE 02

1937-1970 白石カルシウム株式会社設立と商社機能の発展

PHASE 03

1950-1970 炭酸カルシウム 他分野への発展

PHASE 04

1970-1995 それぞれの躍進

PHASE 05

1995-2018 次なる一歩へ グループ経営への道

1886

炭酸カルシウムにかけた白石恒二

白石恒二は1886(明治19)年3月1日、白石喜平の長男として広島市に生まれた。1905年、19歳の時には東京へ渡る。恒二はこの頃、チョーク、歯磨き粉、ゴムなどの製造に使われている炭酸カルシウムが、ありふれた石灰石を原料としていることを知り、しかもわざわざ高額な船便で輸入されていることに驚きと疑問を持ち、その需要の高さを知った。昼は電友社で働き、夜は築地工手学校で電気工学を学び、その間の余暇を利用して炭酸カルシウムの製法を研究する毎日が続いた。

1909

兄弟で事業を興す

白石恒二が広島市に白石兄弟商会を設立して工場の建設に着手したのは、まだ築地工手学校に在学中の1909(明治42)年9月のことだった。翌1910年7月に築地工手学校を卒業し、8月には吉島工場が完成。そして、1年後の1911年7月、世界で初めての「白石式軽微性炭酸カルシウム製造方法」がついに完成し、直ちに特許を出願した。これが1914年6月に認可された「特許第26117号」である。恒二の弟、白石正三はそのころ日本にはおらず1905年に17歳で単身ハワイに渡り、働きながらアメリカの薬剤師になるための勉強をしていた。その後、企業の発展のためにも兄が繰り返し求めた説得に折れ、恒二の事業に参加することを決意するに至った。

1919

白石工業株式会社設立

白石兄弟商会の主な納品先は小林富次郎商店の「ライオン歯磨」や中山太陽堂(現 ㈱クラブコスメチックス)の「クラブ歯磨」であった。白石恒二は、創業後5、6年を経て炭酸カルシウムの需要が増大し、その将来性について見通しがはっきりしてくるにつれて、吉島工場とは生産方式の異なる大規模な新工場を建設しようと思い始める。そこで1919(大正8)年11月23日、広島市の商工会議所において創立総会を開き、白石工業株式会社を設立した。翌1920年4月30日には第1期決算が行われ、この時の営業報告によると、従業員総数は42名であった。

1921

桑名工場 操業開始

炭酸カルシウムの需要の増大に対応して1921(大正10)年に桑名工場は創業を開始した。原石採掘から製造、出荷までを山の傾斜にそって配置。豊かな自然の水流を粉砕機の動力源として利用、同時に水力発電も行う画期的な工場建築であった。

1927

「白艶華」の誕生

炭酸カルシウムの需要は日本のゴム工業の発展に伴い増えていったが、それは同時に同業他社の参入を招き、価格競争も引き起こした。白石恒二は1924(大正13)年、桑名工場に試験室を設置。新しい製品の開発に積極的に乗り出し、表面処理により乾燥後も粉砕しやすい特徴を持った「白艶華」が誕生する。
だが当時の国内ではあまり評価されず、アクロン大学のシモンズ教授に、その優秀さが立証され、海外での評価が高まり、1933年にはイギリスのダンロップ全工場での白艶華採用が始まり、しだいに国内での評価も高まっていった。

1932

白艶華工場 操業開始

1932(昭和7)年10月、白石恒二はかねて群馬県青倉村に計画していた新工場を、白艶華工場として操業を開始した。1930年、すでに「白艶華」を高く評価していたグッドリッチと技術提携していた横浜ゴム㈱に、桑名工場で製品化された第1号が納入されたこともあって、白艶華工場の建設意欲が全社的に燃え上がっていたのだ。工場は山肌に建てられたが、それは原石採取-焼成-水化-反応-脱水-乾燥-出荷の各工程を、山の斜面に沿って重力を利用して製品を移動させるという、桑名工場同様の効率的な設計思想を実現していた。

1935

戦前の海外展開

1930(昭和5)年、世界的な大恐慌が日本にもおよび、白石工業㈱では経費削減とともに、海外に市場開拓に力を入れることになった。同年、活路を朝鮮に求めて平壌駐在所を開設したのに続き、白石正三がインド、タイの市場開拓に向かい、1935年にはダンロップ、USラバー(U.S. Rubber Company)、バタシューズ(Bata Limited)といった世界屈指のゴムメーカーの工場があるインドのカルカッタ(現コルカタ)に出張所を開設した。

1936

土佐工場 操業開始

白艶華工場の建設が始まった1930(昭和5)年、白石恒二は九州工業地帯への共有及び輸出を目的として土佐工場の用地買収を始めた。その後世界大恐慌の影響もあって建設の着工は1936年2月まで待つことになったが、その年の10月には第1期工事を終え、操業を開始した。

1951

本社移転、北浜へ

度重なる空襲、および原爆により営業所、研究所の消失、本社の疎開などあったが、1951年、白石工業㈱は大阪市東区(現 中央区)北浜に本社事務所を移転。一方白石カルシウム㈱の前身である白石工産㈱も、1945年3月の空襲で営業所、倉庫をことごとく焼失した。同年1951年8月、白石工産㈱も大阪市東区(現 中央区)北浜の白石工業㈱と本社を共有した。

1937

白石商事株式会社設立(旧白石工業㈱貿易部)

1931(昭和6)年、日本はゴム靴の輸出で世界第1位となり、翌1932年にはゴム底布靴の輸出が激増した。白石工業㈱もこの機会を捉え、海外への販路を拡大するため1932年4月に貿易部を設置し、1935年10月にはインド市場を東南アジア市場への足掛かりとして白石正三支配人の強い主張によりカルカッタ(現 コルカタ)にインド出張所を設けた。
その後貿易部の活動は専門商社的な性格を持つようになり、白石工業㈱の裾野として別会社にするという発想のもと、1937年11月、白石商事㈱として設立した。

1941

三国自動車運送有限会社設立

白石工業㈱桑名工場の製品輸送は、もともと当時一般的であった個人の運送業者数名が行っていたが、統制経済が急速に強化させる中、運送業者を束ねる機運が高まった。そこで白石恒二が当時運送業者として活躍していた小寺栄次郎に要請し運送業者をまとめ、1941(昭和16)年5月に三国自動車運送(有)を設立、白石工業㈱桑名工場の輸送一切と、白石工業㈱の副産品(石灰や砕石)の販売で事業活動を始めた。

1936

栄養興業株式会社設立(旧白石工業㈱農事部)

白石工業㈱は1920年代後半から農事部を設け、微細な炭酸カルシウムを原料とした動物用医薬品「コロイカル」の販売を始めた。しかし、この動物用医薬品や後の栄養剤「コロカルソ」は、ゴム業界を主取引先とする「白艶華」などと販路を異にし、また全国的な販売網を必要としたことから、1936(昭和11)年3月に農事部を白石工業㈱から分離独立し、栄養興業㈱を設立した。1952年6月には栄養カルシウム㈱と合併し、社名を栄養カルシウム興業とした。

1959

白石カルシウム株式会社設立

1959(昭和34)年5月、白石正三の提起により白石商事㈱は栄養カルシウム興業㈱と三国工産㈱の2社を吸収合併し、白石カルシウム㈱に社名変更した。これにより白石工業㈱との製販分離が成り、販売の第一線は白石カルシウム㈱に一任されることになった。合成ゴム用新製品の販売に注力するとともに、正三が長年掲げてきた「5等分の均等需要」の推進を目指すこととなる。これは、当時ゴム業界に偏っていた業種別販路を、例えばゴム、加工製紙、合成樹脂、雑工業、輸出など5種類以上持ち、平均的に売り上げることで経営の安定化を図るというものである。

1950

取引商品拡大

白石カルシウム㈱は、1950(昭和25)年より重質炭酸カルシウムの取り扱いを始めた。シンガポールからの注文に応じるための輸出用に、当時の白石商事㈱が輸出一手販売契約を岡山県の備北粉化工業㈱と結んだのがきっかけだった。国内でも1950年代後半以降、塩ビタイルになどに重要が急増し、備北粉化工業㈱や福島県の旭砿末資料合資会社(現 旭砿末㈱)との連携を強化。有機顔料の取り扱いも同じ頃、戦後のゴム工場での合成樹脂製品生産の動きから日弘色料工業㈱(元 日弘ビックス㈱)と契約して始めた。

1968

本社移転 天満へ

白石カルシウム㈱は、1968(昭和43)年5月、大阪市北区同心町に本社を移転、盛大に竣工式を行った。北浜本社の老朽化とこれからの発展成長時代へのよき準備期と捉え、かねて検討されていた本社移転が実現した。

1969

白石カルシウム株式会社 白石進社長就任

1969(昭和44)年3月、白石カルシウム㈱の副社長だった白石進が代表取締役社長に就任した。白石正三は会長となり、白石恒二は相談役に就いた。すでに白石工業㈱では白石恒悳が恒二に代わって代表取締役社長に就任しており、白石グループはトップの世代交代期に入った。

1950

白石工業㈱本社研究所発足

1950(昭和25)年7月、兵庫県尼崎市丸島町に武庫川河口に本社研究所が完成した。新製品の開発、工業化の研究をはじて、品質管理や顧客への技術サービス及び各工場の研究室を統括する役割を目的としたものである。初代所長には白石工業㈱専務取締役の長谷川博が就任した。本社研究所はのちに分離独立し、1972年10月に㈱白石中央研究所となる。

1955

尼崎工場 操業開始

1955(昭和30)年8月、桑名・白艶華(群馬)・土佐に次ぐ4番目の炭酸カルシウムの製造工場として、尼崎工場が操業を開始した。1950年に勃発した朝鮮戦争を機にゴム業界は戦後の混乱期を脱し、ゴムの消費量は増加の一途をたどっており、阪神間のゴム工業界や製紙業界への供給や新製品の試験生産を目的とした。他の3工場とは違い、消費地に直結した工場であり、製品開発のためのパイロット工場も有していた。

1957

白石工業 船を持つ(白王丸、卓洋丸)

かつて、土佐工場で生産した製品は船で輸送していた。工場は「卓洋丸」「白王丸」という機帆船を所有しており、積載量は卓洋丸が130t、白王丸が150t。須崎港を基地とし、白王丸はおもに阪神方面、卓洋丸は岡山を経由して広島方面へ差し向けた。2隻の船は1968年にその役割を終え売却された。

1958

不二工場 操業開始

1950年代半ばに入ると、製紙業界は戦後の経済復興による消費の増大とともに、パルプや製造技術が急速に発展しつつあった。伝票類や雑誌、ポスター、包装紙など紙の用途が広がるなかで、製紙業界における炭酸カルシウムのニーズは今後も高まると捉え、1958(昭和33)年9月に富士川の河口近く、静岡県富士川町に不二工場を完成、操業を開始した。日本一の生産高を誇る製紙工業都市のお膝元である。

1961

碓氷第一工場、東京第一工場 操業開始

群馬県松井田町にある碓氷第一工場は、白艶華工場の分工場であったものを、1961(昭和36)年にベントナイト製品製造工場として稼働することを目的に、新たに整備したものである。周辺でベントナイトという特殊な粘土を産出することから、碓氷第一工場が専用工場とされた。東京第一工場は1962年m、京浜地区の消費地への供給を目的に千葉県船橋市に建設した。企業近代化の潮流の中、機械化された新鋭設備を導入して同年11月に火入れ式を行った。同工場は1975年11害に閉鎖し、跡地は現在、関連施設「サンランド船橋」、商業施設、スポーツ施設へ賃貸している。

1964

太陽化学工業株式会社 グループ参画

1964(昭和39)年、大分県津久見市にある炭酸カルシウムメーカー、太陽化学工業㈱が白石グループの傘下に入った。太陽化学工業㈱は1943年に日本ゴム㈱の子会社として設立された。製品の8割を日本ゴム㈱と㈱ブリヂストンへ供給していた。1940年代後半、当時の社長であった白石恒二が、日本ゴム㈱の初代・石橋徳次郎社長に「太陽化学をお任せいただきたい」と申し出たことがあったという。2代目・石橋徳次郎社長がその話を思い出し、実現の運びとなった。

1965

商品事業の開始(出光興産㈱、Thiele社)

1965(昭和40)年、白石工業㈱は日本トップクラスの石油元売り会社である出光興産㈱と特約販売契約を手結し、合成ゴム用充填剤であるプロセスオイルの販売に乗り出した。2000年以降は海外での販売提携が進むなど、同社との連携は国内外で一層深くなっている。また、1965年には、アメリカのシールカオリン社(Thiele Kaolin Company)の販売代理店として、製紙用カオリン(カオリンクレー)の販売を開始した。2019年にはアジアで初めてとなるシールカオリン社の国際販売代理店会議を日本で開催した。

1966

白石工業株式会社 白石恒悳社長就任、本社移転 尼崎へ

1966(昭和41)年4月、白石工業㈱は本社新社屋の建設に着工。兵庫県尼崎市元浜町で地鎮祭を行った。大阪・北浜から尼崎への移転の目的は、本社管理部門の合理化や機械化に加え、本社機構の改正により従来の本社研究所をあらたに本社機構の一部門として、一層の緊密化を図り新製品の開発と販売機構の強化、あわせて海外からの研修生、その他技術者トレーニングセンターとしての構想があった。この年の12月には、白石恒二から白石恒悳へと社長の交代が行われ、恒二は取締役副会長に就任した。恒悳は1958年以来、取締役副社長として恒二を支え、企業の近代化を推進してきたこともあり社長交代はスムーズに進んだ。

1964

白石工業株式会社 乾燥工程合理化(天然乾燥から加熱乾燥へ)

1960年代後半、いざなぎ景気とよばれる好景気を背景に、民間企業は積極的な設備投資を続けた。白石工業㈱の得意先であるゴムや製紙、プラスチック業過も生産量を増大させ、結果的に当社製品の販売増につながった。このような工場界の発展に伴い、白石工業㈱では「白艶華」をはじめとする製品の供給が十分追いつかない状況に陥っている。その要因として、製造工程における天然乾燥に1か月以上を要する点があった。そこで導入したのが50%の水分を含む炭酸カルシウムを短時間で加熱できる加熱乾燥設備「フラッシュドライヤー」である。これにより乾燥時間は2時間程度と大幅に時間を削減できた。その結果、品不足は解消され、販売実績向上に成功。ここから白石工業㈱の生産性の向上がはじまった。

1972

事業多角化①(製造事業)

1970年代、白石工業㈱白石恒悳社長は、さまざまな分野への事業を展開した。1953(昭和28)年以来、肥後工場・水俣工場では九州のみかん農家への供給を目的に苦土石灰の製造を行ってきたが、1972年に工場の生産部門を新会社として分離させ、白雲台工業㈱を設立。また、1960年代後半から重質炭酸カルシウムの需要が急増したことを受け、顧客のニーズにこたえるために1973年広島県比婆郡東城町(現 庄原市)に東洋ファインケミカル㈱を設立した。

1972

事業多角化②(スポーツ施設)

炭酸カルシウムの製造に邁進しつづける一方、1972(昭和47)年には多角経営化促進に向けて、新たにサービス業界にも進出。白石工業㈱尼崎工場の天然乾燥棚跡地に、スポーツ施設の運営を目的とするサンランド㈱を設立した。工場遊休地の有効利用と、社会生活の変化に着目した余暇の増大による国民の健康増進、スポーツを通じた教育貢献を目指したのである。モットーは「スポーツ・アンド・エディケーション・アンド・ヘルス」とした。翌年9月には、第一弾の施設となる「サンランド武庫川」をオープン。大型のゴルフ練習場やテニスコートなどを配置。続いて、1983年には千葉県船橋市に「サンランド船橋」を開業。サンランド船橋の経営は、1989年に設立した京葉カマロ㈱に継承されている。

1960年代~

事業多角化③(台湾・韓国・マレーシア)

白石カルシウムでは1970年代後半より専門商社としての海外展開がはじまる。
台湾で台石股份有限公司、韓国で韓石インターナショナルを。
1984年には、現在の白石カルシウムシンガポールの前身である、シマンド・エンタープライズを設立。有機材料も扱う化学専門商社として、東南アジアでの基盤を作っていった。

1977

技術革新(連続化合)、「Brilliant-15」上市

1970年代に入ると、炭酸ガス中に石灰乳懸濁液を噴霧し、製造工程を切れ目なく連続的に反応させる「連続化合」の技術を開発。この技術を開発したことで、粒子間凝集が極めて少ない炭酸カルシウム粒子を作ることに成功した。そして1977年に「Brilliant-15」が生まれる。「Brilliant-15」は平均粒子経150nmの立方体炭酸カルシウムで、一般コート紙用顔料として用いられた。白色度が高く、インキ受理性にすぐれており、それまで顔料として使われていた二酸化チタンよりも安価であるため、置き換えることで大幅なコストダウンができた。

1996

白石恒裕氏 社長就任

1996(平成8)年7月5日、白石工業㈱・白石カルシウム㈱白石恒悳社長は、病気のため急逝した。享年70であった。恒悳の跡を継ぎ、7月白石恒裕が37歳の若さで白石工業㈱・白石カルシウム㈱の代表取締役社長に就任。就任にあたり、新しい時代にふさわしい白石グループのあり方を求め、グループ一体経営に乗り出す。

2001年〜2007

営業所統合

白石グループのトップに就任した白石恒裕は、まず白石グループとして拠点を整理統合。顧客からの窓口の一本化を目的に、白石工業・白石カルシウム、合わせて18あった国内営業拠点を、9つに集約。窓口が白石カルシウムに一元化された。

1996

白石カルシウム株式会社 海外現地法人設立

海外ではお客様である日系メーカーの海外進出に合わせて、日本で行っている在庫販売のサービスを提供するため、1990年代末から2000年代にかけて、マレーシア、インドネシア、タイ、中国、インドに白石カルシウムの海外現地法人を設立。

1990

シーリング材向け製品開発

白石工業、白石中央研究所では、1990年代よりシーリング材用炭酸カルシウムの開発を積極的に開始。背景には、ビルの高層化によって建築物の軽量化や密閉性が求められるようになり、鉄筋コンクリートから鉄骨工法へと建築手法が変化したことがある。1988年には「Viscolite-SV」、1995年には「Viscolite-OS」を上市。2001年には、粘度を高めた「Viscoexcel-30」も開発している。

2007

Shiraishi-Omya GmbH 設立

これまで日本・アジア・北米へと製品を供給していた白石工業㈱は、ヨーロッパはほとんど手付かずの状態であった。そこで、2007(平成19)年9月、重質炭酸カルシウム事業で40年以上の付き合いのあるスイスのOmyaと、オーストリア・ケルンテン州グンメルンに合弁会社Shiraishi-Omya GmbH(SOG)を設立した。国内工場の統合などを進める中、ヨーロッパでの合弁会社設立は大きな挑戦であった。

2007

食品添加物製造工場 富士川工場 操業開始

2007年、日本で初となる食品添加物用炭酸カルシウム専用工場、富士川工場が操業を開始。白石工業にとって、食品添加物の製造を本格的に手掛けるのは大きな挑戦だった。
2008年に食添GMPを取得し、続いてハラール、コーシャ認証、2017年にはFSSC22000を取得している。

2015

商社事業の発展:タイ

日系企業の積極的なタイへの進出を受け、1998(平成10)年以降、白石カルシウム㈱は白石カルシウムタイランド㈱を拠点に、精力的に事業を展開してきた。2005年に、アマタシティー工業団地に、白石グループ初となる海外自社倉庫を建設。2015年には、白石オートプロファイルズタイランドを設立し、ゴム成型部品事業にも乗り出した。

2016

本社移転統合

2016年には、兵庫尼崎に本社があった白石工業、大阪北区同心に本社があった白石カルシウムが中之島に本社移転統合。50年ぶりに両社が同じ場所に本社を構えた。
2019年を「第二の創業期」と捉え、環境の変化にいち早く対応できるように、情報の共有、コミュニケーションの活性化を図ることが目的である。